私が絵画を描くようになったきっかけは、美術館で印象派の絵画展を観たことに始まります。
もともとイラストや漫画のようなものは描いていましたが、キャンバスに油絵の具やアクリル絵の具で描きつけることなど、それまで殆ど興味を持っていませんでした。
ところがどうでしょう。
たまたま美術館に行き、たまたま肉筆の絵、その燃え上がるように鮮やかな色彩を観たとき、本当に驚きました。
実物と写真ってこんなに違うんだ。
まるで生きている、星が、光が、動いている…ように見えたその絵は、フィンセント・ファン・ゴッホの「ローヌ川の星月夜」と言う作品でした。
それからゴッホに興味を持った私は、ゴッホの画集を収集し、伝記を読み、あるいは作品の模写をし、ゴッホのことを考察しました。
そして彼がどういう思いで絵を描いていたか何となく察したとき、不遇の人生を送ったこの偉大な画家が、実はか弱いごく普通の人間であり、私たちと何ら変わりないことを知りました。
芸術鑑賞は、予備知識があったほうが絶対楽しめると思っています。美術館でウワサの実物を観たときの感動はひとしおです。
ゴッホは今でこそ知らない人がいないほど有名で人気のある画家ですが、もし「よくわからない」と言う方がいましたら是非、参考にして頂けましたら幸いです。
また、多くの学者が彼について研究していますので諸説あるところもあり、あくまでも私が賛同する内容のものを選んで書いていますので、ご了承ください。
フィンセント・ファン・ゴッホとは
フィンセント・ファン・ゴッホ(1853年-1890年)はオランダ出身で、「ポスト印象派」と呼ばれる分類の画家です。
日本でもその人気は高く、度々企画展が開催され、約53億円で落札された「ひまわり」は今も新宿の「東郷青児記念 損保ジャパン日本興亜美術館」で観ることができます。
ところが…
「不遇の人生」と前述しましたが、生きているうちに売れた絵は「赤いぶどう畑」の一枚だけでした。画家として評価されることはなく、病気と貧困・苦悩に彩られた彼の人生は、たった37年で幕を閉じます。
どういうことかと要約しますと、彼は大変気難しく、女性問題で情緒不安定になり、たびたび癇癪を起こすため友人は少なく、仕事は長続きせず職を転々とし、売れない絵を描き続け、家族からの送金をあてにして生活し、傷害事件を起こして精神病院に強制入院、挙句の果てに銃で自殺してしまうのです。
彼の画家人生は、20代後半に「画家になる」と決めたあとの、たったの10年の間でした。
人々はそんな彼の絵に、何故、惹きつけられるのでしょうか?
人生の情熱のすべてを絵に叩きつけ、魂を削り、多くの犠牲を払って生み出された、約2,000点の作品たち。
まるで炎のようにゆらゆらと揺れる筆跡と色彩は、ゴッホの魂そのものであり、その激しい作風はたびたび「炎の画家」「情熱の画家」と呼ばれる所以となります。
そしてそれ故に死んでいった、おそらくそういう生き方しかできなかった彼に、人々は憧れ、共感し、その絵の中の魂を見出したいと思うのではないでしょうか。
ゴッホの生涯
※かなり抜粋しております。
誕生
ゴッホはオランダの南の端、ベルギーとの国境沿いにある村「ズンデルト」で生まれました。
両親である牧師夫婦は、前年に生まれてすぐ死んでしまった長男の「フィンセント」=「勝利者」と言う意味を持つ同じ名を、迷わず彼に付けたと言います。
ゴッホ家は代々武将や外交官、成功した画商などを排出した名門の家柄でした。
職を転々とする
16歳の時、伯父の世話で「グーピル商会」と言う画商で働くようになります。
その後実力を認められて支店からパリ本店に転勤しますが、下宿先の女の子「アーシュラ」(ウージェニとかウルスラとかどの文献も違う名前で書かれててどれが正しいのか不明)に求婚したもののこっぴどく振られてしまい、その影響か情緒不安定に。
22歳の頃、画商の仕事を放棄して帰郷。その後、教師→書店勤務を経たのち牧師を目指し、神学大学に入学するため勉強を始めるも挫折。
とりあえず他の養成学校に入って牧師の仮資格を取りますが、常軌を逸した伝道活動をしたため(持ち物を全部貧しい人に与えてしまい自分が死にかけるとか)解雇されてしまいます。
画家として
27歳の頃から画家を目指すようになり、仲の良かった弟「テオ」からの仕送りを受けるようになります。
そして実家に戻り、今度はそこに滞在していた未亡人の従姉妹「ケー」に求婚、拒絶されます。この時に、ランプの中に手を突っ込んで「手を入れてる間だけでいいから彼女に会わせて」とケーの両親を脅迫する事件が発生。
それを知ったゴッホの父牧師は激怒し(キリスト教ではいとこ同士の結婚ご法度)、もともと不仲だった父との確執が広がってしまいます。
33歳の時、パリで画商をしていたテオの家に下宿し、絵を学ぶようになります。
この頃にたくさんの自画像を描いています…これまではテオと文通を頻繁にしていましたが、その必要がなくなったため、代わりに自画像を描くようになったと言われています。
そして画家の「ポール・ゴーギャン」や「エミール・ベルナール」らと知り合い交流し、印象派の絵画や、当時流行していた日本の浮世絵の影響を受け、暗かったゴッホの絵は次第に明るい色彩を帯びていきます。
死に至る病
35歳の時、無彩色の街パリを離れ、色彩に憧れてフランス南部の「アルル」と言う街に引っ越します。
黄色の外壁・目の覚めるような青色の内壁がある通称「黄色い家」を借り、壁には黄色いひまわりの絵を飾ったそうです。
※これはゴーギャンが去ったあとに描かれたもの
その後、呼ばれて来た友人ポール・ゴーギャンと共同生活を始めますが、やがて二人は意見の相違から衝突するようになります。
ある日ゴッホは発作を起こし、ゴーギャンを刃物で切り付けた後、自分の耳も切り落としてしまいます…これが有名な耳切事件です。
フランス南部、プロヴァンスにある精神病院「サン=レミ」に入ったゴッホは、院内でも制作を続けます。その頃に描いた作品が代表作「糸杉」「星月夜」です。
37歳の時、サン=レミを退院し、都会の喧騒を嫌ってフランス北部にある「オーヴェル」と言う田舎町に引っ越します。
相変わらず制作を続けていた彼ですが、1890年7月29日、自殺を図りそのまま死去。
病気の発作がたびたびあったようですが、はっきりとした病名は分かりません。(統合失調症、メニエール病など諸説あり)
ちなみに弟のテオも、その半年後に精神を病んで死去しました。
好きなゴッホの作品
私の好きなゴッホの絵は、大体アルルからサン=レミ時代の、黄色い色味の強い鮮やかな色彩のものです。
印象派の絵画からは補色と光の置き方、浮世絵から線の流れと大胆さなど…それぞれ良いところを取り入れて、ゴッホの絵は独自の進化を遂げました。
これも有名な絵のひとつ。アルルの「フォルム広場」(古代ローマ時代の公共広場跡)がモデルです。
カフェの暖かな黄色い光が、路地の地面までも照らしています。その反面、空は青く白い星の光がゆらゆらと浮かび、路地の向こう側は暗く沈んでいくようです。
黄色い空に太陽、オレンジの麦穂、影の青と薄紫…補色を上手く配置し、とても鮮やかな色彩に見せる工夫がされた一枚です。
ゴッホは画家を目指す前から、バルビゾン派の画家「ジャン=フランソワ・ミレー」に憧れていて、美術館に通って作品を鑑賞したり、模写をしたりしていました。
「種まく人」は農民生活を好んで描いたミレー作品に出てくるモチーフで、農民や麦畑はゴッホにとっても主題のひとつでした。
サン=レミでの作品。もうパっと見で「苦痛」が感じられる一枚です。
小麦畑と山・空・月を覆う、うねる線。動き回る世界に眩暈すら覚えます。
ゴッホは「人間とは刈り取られる小麦みたいなもの」と述べていたようですが、この積み上げられた麦束は、まるで墓標のようです。
いかがでしたか?
ゴッホとその絵について、好きなところをまとめることができて、私は満足できました。
あまり興味なかった方でもこの記事をきっかけにして、少しでも楽しんで絵を見て貰えるようになったら、とても嬉しく思います。
参考文献
アーヴィング・ストーン(1990年)「炎の人ゴッホ 」中公文庫
ラミューズ編集部(1995年)「炎の画家:ゴッホ」講談社文庫
嘉門安雄(1997年)「ゴッホの生涯」学陽書房
「ゴッホ展」図録(1985年)
「オランダ クレラー=ミュラー美術館所蔵 ゴッホ展」図録(1995-1996年)
「クレラー=ミュラー美術館所蔵 ゴッホ展」図録(1999-2000年)
「フィンセント&テオ ゴッホ展」図録(2002年)
「ゴッホ展-孤高の画家の原風景」図録(2005年)
「印象派を超えて-点描の画家たち」図録(2013年)
※作品画像はパブリックドメインのものを使用しています。